翻訳と辞書
Words near each other
・ 本多政材
・ 本多政武
・ 本多政礼
・ 本多政行
・ 本多政貞
・ 本多政質
・ 本多政通
・ 本多政遂
・ 本多政重
・ 本多政長
本多政長 (加賀本多家)
・ 本多政養
・ 本多敏三郎
・ 本多敏樹
・ 本多敏行
・ 本多敬義
・ 本多日生
・ 本多早雲
・ 本多昌長
・ 本多春奈


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

本多政長 (加賀本多家) : ミニ英和和英辞書
本多政長 (加賀本多家)[ほんだ まさなが]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [た]
  1. (n,pref) multi- 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [か]
 【名詞】 1. addition 2. increase 
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 

本多政長 (加賀本多家) : ウィキペディア日本語版
本多政長 (加賀本多家)[ほんだ まさなが]
本多 政長 (ほんだ まさなが、寛永8年8月21日1631年9月17日) - 宝永5年8月9日1708年9月14日)) は、加賀藩の家老、加賀八家本多家第2代当主。
父は加賀藩家老本多政重。母は西洞院時直の娘。正室は前田利常の娘・春姫。子は本多政敏、本多政孝、本多政則、本多政冬、本多政広、本多政寛、八幡新善法寺行清。幼名長松。通称左馬助、安房。号素立軒。官位は従五位下安房守。
== 生涯 ==
本多政重の四男として生まれる。兄たちが早世、あるいは他家の養子となったために嫡男となる。正保3年(1646年)、前田利常の娘・春姫と結婚する。正保4年(1647年)、父の隠居により家督相続する。慶安3年(1650年)正室自性院(春姫)死去。慶安5年(1652年)江戸城で将軍徳川家光に拝謁する。
承応2年(1653年鷹狩のため、政長が富山に宿泊した際、本多家の中間富山藩士片岡平右衛門と争い、刀を奪い取り辱める事件が起こる。富山藩主前田利次は、片岡平右衛門に切腹を命じ、政長は中間五人を死罪として利次に謝罪するも、許されなかった。加賀藩主利常も両者の和解を促すも、利次の怒りは解けなかった。大聖寺藩前田利治からも助言があり、政長は事態収拾のために、家老藤井雅楽を切腹させ、利次に改めて深く謝罪し、利常からも再三慰謝があったことから和解することとなった〔『富山市史』〕。
万治元年(1658年)江戸城修復の課役を務める。同年紀州藩徳川頼宣に拝謁し、その才を認められ親しく交際した。寛文11年(1671年菩提寺である大乗寺月舟宗胡を招いて住持とする。貞享5年(1688年)大年寄(大老)となる。元禄4年(1691年)父政重、横山長知慶長20年(1615年叙爵以降途絶えていた、前田家陪臣の叙爵を幕府より許され、従五位下安房守に任官。元禄14年(1701年)隠居して家督を嫡男政敏に譲り、隠居料3000石を賜る。宝永5年(1708年)8月卒。享年78。
次男政孝は幕府証人となる。15歳で早世。三男政則、四男政冬は家臣となる。五男政寛は、父の隠居料3000石を相続して分家加賀藩人持組となる。六男甚之助は、八幡新善法寺の住職行清権僧正となる。
茶道宗和流2代金森方氏の門人の茶人としても知られ、方氏の父宗和野々村仁清作の御室焼入手の仲介を受けている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「本多政長 (加賀本多家)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.